お酒に隠された秘密をとき明かします

Story no.5

日本のウイスキーの生みの親は?

2014.09.09

日本で初めて国産本格ウイスキーが発売されたのは今から87年前の昭和4年(1929年)4月1日。寿屋という洋酒会社が製造したウイスキーのその名はサントリー白札。今日もサントリー・ホワイトと名前を変えて販売され続けています。サントリーという商号は当時の寿屋の社長・鳥井信治郎氏の「鳥井さん」から名付けられたと言われています。製造は「山崎蒸留所」で行われました。そうサントリーの誇る高級ウイスキー、シングルモルト「山崎」の故郷です。白札の熟成年数は4年あまり。そして、山崎蒸留所を設計し、製造の責任者だったのは後にニッカウヰスキーを創業することになる竹鶴政孝氏でした。

しかし、残念ながらこのサントリー白札はピートの香りが強すぎて焦げくさく期待したほど売れませんでした。竹鶴は熟成が足らないのが原因であると言い、鳥井は竹鶴の技術不足をほのめかしています。

鳥井信治郎は当時50歳。大正時代に赤玉ポートワイン(今日の赤玉スイートワイン)の販売で大成功し、今日のサントリーの基礎を築いた酒類業界を代表する優れた経営者です。

一方、竹鶴政孝は大正7年から2年間単身スコットランドに留学してウイスキー造りを理論はもちろん蒸留所の実際の作業も経験して学んだ、当時ウイスキー造りができる唯一の日本人でした。当時35歳の青年です。

当初、寿屋の鳥井信治郎は、国産初の本格ウイスキーを造るために、ウイスキーの本場スコットランドの技師を雇うことを考えていました。彼はスコットランドのグラスゴー大学に技師を紹介してもらおうと打診します。その時、グラスゴー大学から竹鶴政孝の存在を知らされたのです。一方、竹鶴政孝は大阪高等工業(今の大阪大学)卒業後、摂津酒造という当時のトップクラスの洋酒製造会社の製造主任として働いていたのです。摂津酒造は大正バブルとも言うべき好景気を受けて竹鶴をスコットランドに派遣したのですが、帰国したころにはバブルがはじけ、摂津酒造の業績も低下して本格ウイスキー製造どころではなくなっていたのです。やむなく摂津酒造を退職し、教師となっていたところに寿屋の鳥井からの誘いが来たのです。鳥井はイギリス人技師に払う予定だった給与と同額の高い報酬を竹鶴に支払ったといわれます。竹鶴は鳥井との10年間の雇用契約が終了した昭和9年(1934年)に寿屋を退社し、北海道の余市に余市蒸留所をつくります。これがニッカウヰスキーの始まりです。

昭和12年(1937年)寿屋は満を持してサントリー角瓶12年を発売。山崎蒸留所創業時から12年間熟成されたモルト原酒はその本領を発揮して高い人気を博すことになります。戦争を挟んで昭和31年(1956年)竹鶴政孝は自信作「ブラック・ニッカ」を発売します。ブラック・ニッカのラベルの王様の肖像は竹鶴の風貌をモデルにしているといわれています。

販売戦略に優れた鳥井信治郎と情熱のウイスキー職人・竹鶴政孝、この2人が揃わなかったら今日の日本のウイスキーは無かったかもしれません。二人の代表作である角瓶とブラックニッカ・リッチブレンドを飲み比べながら二人の男たちの生き様を偲んでみるなんていうのも粋な酒飲みではないでしょうか。

ちなみに9月29日(月曜日)からNHKで竹鶴政孝とその妻リタをモデルにした朝の連ドラ「まっさん」が始まります。主人公の名前が亀山政春とエリーに変えられている以外は史実に添って構成されていますので、これも是非お楽しみください。

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小川 素市

PROFILE

小川 素市(おがわもといち)
新川屋(しんかわや)酒店三代目。61才。
酒の話になると止まらないという噂も。

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